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2008年10月

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 それからのあたしは薬のせいもあったのか、1日のほとんどを眠って過ごした。平山の言ったとおり少し食欲は出たが、食べることが悪いことのように思えて、水分以外のものは指を入れて吐いていた。携帯の電源は、あれから入れていない。バイト先の店長から「もう来なくていいから」と電話があったことを、母から聞いた。どうでもよかった。外出することはもちろん、風呂に入ること、顔を洗うこと、歯をみがくこと、テレビを見ること、排泄をすること、すべてが億劫だった。病院も、3回目までは母が連れて行ってくれた。

 「次からは1人で行けるわね。お母さんも、あんまり仕事を休むわけにはいかないの。」

 その帰り道に、母は言った。

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―※―

 翌日、あたしは母に連れられて大学病院の精神科の待合室にいた。2時間も待たされてようやく通された部屋には、偉そうな顔をした医者が座っていた。

 「どうしましたか?」

 ドウシマシタカ。何を言ってるんだろう。ドウシマシタカって、どんな意味だっけ。

 母があたしの左手を見せて、

 「ずっと部屋から出てこないと思ったら、こんなことになっていて・・・。ずっとこの調子で、何も話してくれないんです。私もどうしたらいいかわからなくて・・・」

 医者があたしの顔を覗き込むようにしてたずねる。

 「山田真由子さんですね。私は平山といいます。ずいぶん痩せてるけど、ご飯はちゃんと食べてる?」

 「その手は?自分で切ったの?」

 「夜はちゃんと眠れる?」

 答えのないあたしに見切りをつけたのか、平山は質問相手を母に変えた。

 しばらく話し込んだ後に、平山が言った。

 「真由子さんは、ひどい鬱状態にあるようです。なにが原因かはお嬢さんに聞かないとわかりませんが、今は話のできる状態ではなさそうなので・・・。

 とりあえず薬を飲んでみてください。ドグマチールという抗鬱剤を試してみましょう。少し食欲が出ると思います。これは夕食後に飲んでください。それから、テトラミドという薬。これは寝る前に飲むようにしてください。軽い睡眠薬です。話せるようになったら、少しずつ原因を探っていきましょう。2週間後に、またきてください。」

 ウツ、という言葉だけが聞こえた。ウツってなんだっけ。あたしやっぱりどっかおかしいのかな。まあ、いいや。なんだって。

 会計をするのにさらに1時間ほど待たされ、薬をもらって、あたしたちは帰った。帰り道、母は一言もしゃべらなかった。

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-6-

 「真由子、真由子!しっかりして!」

 母の声で、気がついた。体が鉛みたいに重い。のどが渇いた。水を飲みに行こうと起き上がるが、目眩がひどくて立ち上がれない。

 「・・・み、ず」

 「何?」

 「みず、のみたい・・・」

 張り付く喉で、なんとか声を絞り出す。差し出された水を、一気に飲み干す。

 「コンビニの店長さんから、連絡がとれないって・・・いったいどうしたの!この血・・・」

 「・・・」

 ああ、バイトだったんだ・・・。ぼんやりと思った。どうでもよかった。眠りたかった。父はあたしを見て、「明日、病院に行きなさい」とだけ言った。あたしは再び眠りに落ちた。

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-5-

 のどが渇いて目が覚めた。雨が降ってる。どれだけ眠っていたんだろう。携帯を開くと日付けが変わっていた。何時間眠っていたのか、計算することができない。重い体を起こして洗面所に行き、おなかがパンパンになるまで水を飲む。手首の傷は、出血のわりに深くはなかった。手首に固まって張り付いた血を洗い流す。赤い水が排水溝に流れていった。

 部屋に戻り、もう一度携帯を見る。着信がたくさんあった。メールも。すべてトシオからだった。メールを開いてみる。

 『どうしたの?俺はマユのことが好きだよ?』

 電源を切った。何も考えたくはなかった。残っていた薬を全部まとめて飲み込んだ。何錠あったかなんて、どうだっていい。早く現実から逃げたかった。

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-※ー

 家に帰って、ベッドに潜りこんだ。自分が半分になったような気がした。転勤が決まったときから予感はしていた。トシオの優しさはずるさだっていうことも、ずっと前からわかっていた。それでも、それでも楽しかった。一緒にいたかった。枕元に置いてあった、シンデレラ城のメダルを握りしめる。目を閉じると、パレードの音楽が聞こえた。魔法の時間は、確かに存在したのに・・・!現実感がなさすぎて、涙も出ない。ふと、机の上のカッターが目に止まった。起き上がり、ぼーっとした頭でそれを手に取った。おもむろに手首に刃を当てて思いっきりひいた。一瞬、白い切り口が見え、プツプツと血が溢れてきた。流れる血を舐める。鉄の味。眠ろう、と思った。目が覚めたらトシオと一緒に笑っているかもしれない。あたしは、もう使うことのなくなったキャリーバックに手を突っ込んだ。探したものはすぐに出てきた。東京に行くときのために買った酔い止めの薬。飲んでみたら、ものすごく眠くなったっけ。3錠を取り出し、口に入れる。ミネラルウォーターで飲みこむ。しばらくして、目眩がした。起きていられなくて、ベッドに倒れこむ。左手がヌルヌルする。ベッドに血がつく・・・そこから先の記憶は、ない。

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-※ー

 8月の暑い日だった。一瞬、油断した。こぼしたコーヒーが左袖にかかってしまい、熱くて思わず袖をまくってしまった。はっとした時にはもう、遅かった。トシオの目はあたしの左腕に釘付けになっている。

 「・・・何、それ。」

 「なんでもない。」

 「なんでもないわけないでしょ?」

 無理やり腕をつかまれ、左袖をめくられる。そこには数え切れないくらいの、切り傷の跡。

 「どうしたの、これ。」

 テレビでも見てるみたいだった。それほど、現実感がなかった。あたしは冷静だった。

 「・・・自分で、切った。」

 トシオが動揺しているのがわかる。

 「・・・どうして?なんかあったのなら言ってくれればよかったのに。」

 「な、んで・・・?」

 トシオの声がすごく遠い。こんな時でも、トシオは優しい。優しい・・・

 「なんで・・・なんでセックスしてくれないの?」

 「え・・・?だから切ったっていうの?そんなことで?」

 あたしは、もう何も言えなかった。

 「マユさあ、病院行きなよ。」

 長い沈黙の後、トシオが言った。意味がわからなかった。

 「それって、リストカットってやつだろ?それに、マユ最近吐いてばっかりじゃん。どっか悪いのかなってずっと思ってたんだよ、俺。精神科とか、心療内科とか?」

 ちがう。ちがう、そんな言葉がほしいんじゃない。あたしは、抱きしめて、愛してほしいだけなのに。あたしの心は、トシオには届かなかった。

 「ごめん・・・もう、無理。耐えられない。」

 トシオは何も言わなかった。あたしは目に付く自分の荷物を全部抱えて、アパートを飛び出した。

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 あたしの心はもう限界に近づいていた。優しいトシオ。セックスをしてくれないトシオ。訳がわからなかった。自分が自分ではない、夢の中にいるような、そんな状態が続いていた。食欲もなく、何を食べても砂を食べてるみたいだった。無理やり飲み込んでもお腹に異物があるような気がして、指をつっこんで吐いてしまった。体重は、トシオが帰ってきてから15キロも減っていた。相変わらず優しいトシオは心配してくれたけど、だからといって何も変わらなかった。

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-※ー

 トシオが帰ってきてから3ヶ月がたった。

 平日は、トシオの仕事が終わってから一緒に食事をし、週末にはアパートに泊まる。バイトは、それに合わせてシフトを変えてもらった。それがあたしの新しい生活だった。

 トシオはあいかわらず優しかった。あたしは、トシオにセックスをねだるのをやめた。拒否されるのが怖かったのもあるし、もうトシオに肌を見せることができなかった。人間の体というのは不思議なもので、跡が残ればいいと願うあたしの気持ちに応えてくれるかのように、ほんのちょっとの傷でも消えなくなっていた。そしてそれは左腕から手首にかけて、一面に広がっていた。トシオは、夏が近づいても長袖でいるあたしに、「暑くないの?」と一度だけ聞いた。

 

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-※ー 

 それでも、夜はやってくる。

 「ねえ・・・」

 トシオの体に手を這わせる。チンポは、勃っている。トシオのチンポを触りながら、キスをしようと顔を近づける。トシオがほしかった。抱いて、愛してほしかった。なのになのになのに。

 トシオはさりげなくそれを拒否した。

 「寝るよ。疲れたでしょ。」

 そういって、電気を消して布団に入る。いつもどおりの腕枕。勃起しているチンポ。かわいそうなあたしのマンコ。訳がわかんない。インポならよかったのに。どうして?チンポは勃ってて、隣にはセックスをしたいあたしがいる。なのにどうして腕枕をして眠れるの?わかんないわかんない。どうがんばっても、チンポはマンコに入らない。あたし、言ってるのに。トシオとセックスがしたいって、はっきり言ってるのに。どうして無視するの?せっかく帰ってきたのに、やっぱりセックスしてくれないの?どうして?ずっとセックスしないの?この苦しみはずっと続くの?

 トイレに鍵をかけ、涙をこらえながらオナニーをした。あたしのマンコ、こんなになってるのに。手をのばせばトシオのぬくもりがあるのに・・・。惨めだった。イクと同時に、涙があふれた。

 転勤の話をきいたときからずっと心の隅にあった不安。ずっと気づかないフリをしてやり過ごしてきた。その不安は、今現実になった。遠距離のときならまだよかった。離れている間は考えずにすんだし、一緒に過ごす数日間だけ我慢すればよかったから。でもこれからは、ずっとセックスをしてもらえないことに悩み続けなければいけない。同じ夜を迎えるたびに、惨めな気持ちにならなくてはいけない。これが今の、そしてこれからのあたしの現実だ。

 洗面所に置いてあった化粧ポーチからカミソリを取り出す。長袖に着替えてから、あたしはトシオの隣で眠りについた。

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 ピカピカのバスルームにお湯を張る。買ってきたばかりの入浴剤を入れると、お湯が白く濁った。あたしの好きなラベンダーの香り。胸いっぱいに吸い込んでから、あたしはお湯に体を沈めた。今日1日の出来事を思い返す。3年間、この日を待っていた。やっと願いが叶った。これからはこの部屋で、この町で、トシオと過ごしていくんだ。もう長距離バスには乗らなくていい。会いたいときはすぐに会いに来れる。楽しいことをいっぱい考えて、あたしは頭をかすめる不安を無理やり押しつぶした。

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 「どうもありがとうございました!」

 引っ越し屋を見送り、荷物の入った部屋を見渡す。東京からやってきたトシオの荷物たちは、なんだか居心地が悪そうだった。

 「ありがとな。手伝ってくれて。疲れたろ?」

 「ううん、平気。引っ越しって初めてだったから楽しかった。」

 「そっか。」

 トシオは笑って、あたしの頭をなでた。

 「元気ならさ、買い物行きたいんだけど、いいかな?トイレットペーパーとか。ないと困るじゃん?そんで飯食ってこよう。今日、泊まれるでしょ?」

 「うん、もちろん!あたし、肉が食べたい。焼肉行こ!」

 親には、トシオが帰って来ることは話してあった。反応は、なかった。父と母の冷たい表情が頭に浮かんだが、考えないことにした。

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 「早かったね。」

 「そう?えっとね、207号室だって。」

 あたしたちは階段を上り207を探す。奥から2番目の部屋だった。

 「残念、角部屋じゃなかったか。」

 「でも、なんかきれいなところじゃん!ね、早く入ってみようよ!」

 カシャン。鍵が開く音がした。おそるおそる中に入る。手前に4畳くらいのキッチン。その奥に8畳くらいはある、フローリングの部屋が見える。

 「すごーい!前のとこよりも広いよ!ほら、トイレとお風呂と洗面所、全部別になってるし!」

 すごいすごいとつぶやきながら、あたしは部屋中を探検した。

 「マユ、こっちおいで。」

 トシオに呼ばれて奥の部屋をのぞく。トシオは、フローリングの床に大の字になっていた。伸ばした手で、床をポンポンとたたく。あたしもトシオの隣で横になってみた。白い天井が見える。まだカーテンのかかっていない窓からは、澄み切った青い空。

 「3年前、東京に引っ越したときも、こんな風になーんにもない部屋で荷物が来るのを待ってたんだ。」

 「ほんと、なーんにもないね。」

 「でも、今はマユがいる。」

 手を繋ぐ。しばらく無言で天井を見つめていた。繋いだ手が、あったかかった。

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 「あ、あれじゃない?あの茶色いの。」

 あたしは愛車のラパンを運転していた。助手席には地図とにらめっこをするトシオ。

 「どれ?」

 「ほら、右のほうに見えるやつ。2階建ての。えーっと、セジュール前田って書いてあるけど・・・。」

 「ああ、それそれ。」

 トシオが顔を上げる。トシオは実家には戻らず、会社が社宅として借り上げているアパートに住むことになった。車を止めて、これから2人の”愛の巣”になるはずの建物を見上げた。

 「向かいが大家さんの家なんだって。俺、あいさつして鍵もらってくるから。ちょっと待っててくれる?」

 あたしがうなずくのを確認して、トシオは向かいの家に入っていった。あたしはもう一度アパートを見上げる。わりとおしゃれなアパート。想像してたのよりもずっと新しい。ここならあたしの家から車で15分ほどかな。近くにはコンビニもあるし、すばらしい立地条件。ここに、トシオが住む。ここで、あたしたちの新しい歴史が生まれる、はず。そんなことを考えているうちにトシオが戻ってきた。

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